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人形浄瑠璃は16世紀末、淡路島でその原型が生まれたといわれています。その後、京大阪を中心として全国に広まり、宝暦年間以前にこの稲武の地にも伝わったと思われます。
 これは、宝暦弐歳(宝暦2年=1752年)の銘がある地元制作の首(「かしら」と読みます)が残っている事から、実際に伝わったのはそれ以前のことと思われます。
 特に小田木村は人形浄瑠璃が盛んで八幡神社境内には人形座が作られ、さらにはその近くに人形田と呼ばれる田んぼまで作られて、この収穫物で遠くから師匠を招く費用などをまかなっていたとのことです。
 ただ、徳川幕府統治下の元禄年間から享保年間にかけての平和な時代も長くは続かず、天明年間の大飢饉を契機に幕府は倹約令を度々出します。その後天保年間には老中水野忠邦が天保の改革を断行し、歌舞伎や人形浄瑠璃の興行も取締りが強化されましたし、この小田木地区そして周辺地区でもおそらく飢饉に見舞われ自粛せざるを得ない状況になったであろうと思われるますが、密かに細々と続いていたものと推測されます。
 飢饉、取締りなどがあっても尚、細々と続けられていた理由として考えられる事は、単に人形浄瑠璃が村人の娯楽だけに留まらず生活に深く根ざした氏神様への奉納の意味合いがあったのではないかと推測されます。
 しかし、この営々と続いていた人形浄瑠璃も明治8年に額田県令により地芝居禁止令が発令され、それを受けて小田木村でも「村中倹約申合」の決議に至り、実直な村人はこれに従い120年余り続いたこの地の人形浄瑠璃はここに幕を降ろしてしまったのです。
 ここまではよくあるお話なのですが、実直な村人は先祖から伝えられたこの人形浄瑠璃の首・衣装をけっしておろそかにすることはなく、毎年虫干しをし大切に手入れをしながら保存して来ました。そしてそれは明治末期、青年団の設立と同時に青年団の事業として受け継がれ、毎年旧盆の16日お宮の舞台に縄を張ってこれの虫干し・手入れを行い今に伝えてきたのです。
 「村中倹約申合」の決議もされず、そのまま続けられていれば首・衣装とも演技・練習中などに破損する可能性もあります、また自然に衰退した場合、誰も手入れをしないまま放置されてしまう事はよくあることです。
 この、実直な村人と「村中倹約申合」の奇妙なめぐり合わせにより、宝暦年間に制作された首・衣装がそのまま現代に受け継がれているところが当館の特徴なのです。
 当館では、この貴重な人形浄瑠璃の首49点、衣装54点、道具類10点を有して展示しております、是非ご覧いただきたいと思います。
         更に詳しい事は当館で販売しております「小田木人形座」という小冊子(500円)をご参照下さい。                                       
   
           
   
宝暦弐歳と文蔵作の銘がある首
名人といわれた文蔵である。
こちらは衣装
   
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 こちらは、その文蔵の作品で「子抱え牛」
  
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愛知県の文化財に指定されております。
    
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台本もきれいに残っていますが、読むことが出来る人もなく残念です。
   
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